品格が高い格調高い文章を書くよりも、誰でも解る読みやすい文章を書く方が難しい

あちこちのキリスト教オタクとかリベラル系クリスチャンのブログや掲示板などでは、文体が「である調」で、一見すると高度な文章力をもっているようなんですが、何かを伝えるためには誰にでも解る文章にするべきだと思います。

下手すれば漢文(?)文語体(?)と思いたくなるような文章が多々あります。
そもそも平易な文章だと頭が悪そうにみえるので、それでわざと難しい文体で書き込む人もいるのです。

さらに自分の学歴をみせつけるのは自己顕示欲が強い証拠です。

なぜリベラル派クリスチャンの文章がまわりくどく難しいのかと言えば、神の言葉である聖書の記述を一切信じていないから、それを最もらしく表現すると、平易な文章では矛盾点がたくさん出るため、わざと読みにくく難しい文章にすることで、いかにも高い知性があるように思わせるのです。

そもそも知性とは何だろうかといえば、高い学歴や高度な知識、何らかの称号ではなく、心の状態だと思います。別の言い方すれば霊性だと思います。リベラルが理解できないのが目に見えない霊的なものだと思います。そのような概念がないために、彼らが言う言葉は、とても回りくどく小難しい理屈がたくさんあるのです。

だから本来は、解りやすい文章で説明することが、いかに大事なのです。

逆に言えば、福音派とか聖霊派などのブログや書籍の文体がやさしいのは、聖書の言葉は文字通り神の言葉と認めているから、人間が考えた小難しい論理や回りくどい理屈が不要なのです。

信仰が長続きさせるには、ダイレクトに神の言葉を伝えることが、とても大事なことなのです。

人間的な理屈では、到底、真理を見いだすことができず、むしろ、キリスト教という枠を外れ、仏教を熱心に学んだ方が良いと思います。仏教のほうがリベラル派キリスト教よりも高度な真理がたくさんあるからです。それもやさしい言葉で理解できるのです。

でもキリスト教が仏教と次元が大きく異なるのは、人間の罪の問題だけではなく霊的な現象も体験するから、キリスト教は文章だけの宗教ではなく、生きた神様とのかかわりなんだと思います。

それには熱心で正しい祈りが必要だと思います。

非科学的とか非論理的だと思われても、生きた神様とのかかわり、その働きをダイレクトに伝えるだけですから、難しい言葉は不要なのです。単純な言葉で誰にでも伝えることができるのです。